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  • 2014.03.25 Tuesday
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書評・押井守「凡人として生きるということ」〜「才能なき者」として群れの中へ〜

凡人として生きること。


かなり、重い言葉ではないのだろうか。
「誰のものでものでない自分の人生」、「かけがえのない自分だけの自分のの人生」。
何者でもない「凡人」であれ。
そんな巷にあふれる強烈なアンチテーゼだ。
しかも、筆者は功なり名を遂げた押井守だ。
筆者である押井守は、アニメや実写映画を中心に活動している、知る人ぞ知る日本の映画監督。

1989年 『機動警察パトレイバー the Movie』 (監督・絵コンテ)
1990年 『Maroko / 麿子』 (原作・監督・脚本)
1993年 『機動警察パトレイバー 2 the Movie』 (監督・絵コンテ)
1995年 『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』 (監督・絵コンテ)
1997年 『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊 インターナショナル・ヴァージョン』 (監督)
2000年 『人狼 JIN-ROH』 (原作・脚本) (監督は沖浦啓之)
2002年 『ミニパト』 (脚本・音響プロデュース・演出コンセプト)
2004年 『イノセンス』 (監督・絵コンテ・脚本)
2008年 『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0』 (監督・監修)

いわゆる「ジャパニメーション」の旗手的存在だ。
メガヒットこそないが、個人的にも非常に感銘を受けた作品が多い。
特に、精神(≒魂、「ゴースト」)と体の境界線の、曖昧さを描いた
『イノセンス』は傑作だと思う。
では、押井守が言う「凡人として生きること」とは?
 
 
<目次>
第1章 オヤジ論―オヤジになることは愉しい
第2章 自由論―不自由は愉しい
第3章 勝敗論―「勝負」は諦めたときに負けが決まる
第4章 セックスと文明論―性欲が強い人は子育てがうまい
第5章 コミュニケーション論―引きこもってもいいじゃないか
第6章 オタク論―アキハバラが経済を動かす
第7章 格差論―いい加減に生きよう
 
 
 「眠っている才能」などという表現を耳にすることがあるが、
 もしも本当に、何億人かにひとりの才能がどこか埋まっていれば、
 その才能は必ずひとりでに輝きだして、埋もれてしまうことを拒むはずだ。
 きっと誰かに発見されるはずなのである。だから、本物の才能が
 どこかで眠り続けるているはずがないし、残念ながら、その才能の
 持ち主があなたである確率はほぼゼロに等しい。
 
 (第6章 オタク論―アキハバラが経済を動かす より)
 
 
正論だろう。しかしそれを真から受け止められる人は強いと思う。
 
 
 だから、天才の身ではない我々は、情熱を持ち続けることしか、この世を
 渡っていく術がないのだ。
 情熱さえあれば、貧乏も苦難も乗り越えられるだろう。
 『名もなく貧しく美しく』の話を先に書いたが、金と名声を追っていけば、
 それが失われたときに人は堕落する。だが、自分の美学と情熱があれば、
 富と名誉に煩わされることなく生きていける。

 (第6章 オタク論―アキハバラが経済を動かす より)


「自分の美学と情熱があれば」。
同じく幻冬舎刊の、村上龍「無趣味のすすめ」(http://3amop.jugem.jp/?eid=836)での、



 
 繰り返すが、仕事は何としてもやり遂げ、
 成功させなければならないものだ。
 仕事に美学や品格を持ち込む人は、よほどの特権を持っているか、
 よほどのバカか、どちらかだ。
 問題は品格や美学などではなく、
 Money以外の価値を社会および個人が
 具体的に発見できるかどうかだと思うのだが、
 そんな声はどこからも聞こえてこない。
 
とは一見対照的だ。
 
 美学を貫いていれば、いつの間にか名声やお金は付随的に発生するものだ。
 仕事で成功すれば、結果的に富と名誉を得ることができる。
 しかし、初めから富と名誉得ることを目的とすれば、道を誤る。
 (第3章 勝敗論―「勝負」は諦めたときに負けが決まるより)

そして、押井守は映画作りという仕事に関して
「自分自身が評価できる作品になったかどうか、その一点」と書く。
*なお、「第3章 勝敗論―「勝負」は諦めたときに負けが決まる」で、
押井守はこうも書く。
 
 何度でも言うが、美学というものは、自分で決める道であるとはいえ、
 自分勝手なものではいけない。
 その美学が社会的に認知、公認されるかどうかは、
 とても重要な要素になる。


前述の村上龍は続ける。

 問題は品格や美学などではなく、
 Money以外の価値を社会および個人が
 具体的に発見できるかどうかだと思うのだが、
 そんな声はどこからも聞こえてこない。
 
 
押井守にとって「美学」であり、なおかつ「Money以外の価値」である、
「自分自身が評価できる作品になったかどうか、その一点」という点で
両者は一致しているのか?
しかし、村上が説くように、
(「Money以外の価値」であろうとなかろうと)
「美学」を仕事に持ち込むということは
選ばれし才能という特権を持つ者にしか、依然許されない。
押井守は、「自分自身が評価できる作品になったかどうか、その一点」を
美学に据えたが、クリエータでもない僕を含む一般読者は、
どのような「美学」を持つべきなのうだろうか?
読了後に少し、フォローが欲しいと感じた。
 
 
さて、本書冒頭部分で、押井守は若者が持つ「無限の可能性」を否定する。
 
 
 砂漠の真ん中で「オレは自由だ」と叫んだところで、さて何ができる?
 何もできるはずがない。他人の人生を拒絶し、誰とも会話せず、
 コンビニの食事とレンタルビデオに明け暮れる人生もいいだろう。
 だが、それは断じて自由な人生ではない。僕に言わせれば、それほど
 不自由な生き方はない。
 
 (第2章 自由論―不自由は愉しいより)
 
 
また、「第5章 コミュニケーション論―引きこもってもいいじゃないか」では
 
 
 例えば引きこもりの現象を論じる時、家にこもって出てこない若者は、
 世の中に関わること自体が嫌なのか、
 それとも世の中に参加するテーマを見出せていないのか、
 それをまず明らかにして分別しなければならないと思う。
 
この、分類はとても興味深い。
「世の中に関わること自体が嫌」ならば、ネットににも繋がず、
一人だけの世界に閉じこもり続けるだろうし、「世の中に参加するテーマ」を
切実に求める人間なら、自ずから何かしたいと感じているだろう。
 
 
 この人生は他人の人生と関わり、他人の人生を背負い込むこと
 ぐらいに楽しいことはない。
 それは恋愛でも、結婚でも、就職でも、起業でも、同じことである。
 逆に言うと誰からも必要とされない人間ほど寂しいものはない。
 人は誰かから必要とされて、本当に生の喜びにひたれる。
 (中略)
 そして、社会とつながっていれば、次にやりたいことが出てくる。
 それは会社の中での出世でもいいし、経営計画の刷新でもいいが、
 次から次へとやりたいこと、やらなければいけないことが
 出てくるのである。
 (中略)
 あるいは「自由」という言葉を使うから、物事の本質が
 見えにくくなっているのかもしれない「自由」を
 「自在」に読み替えてしまってはどうか。
 理解がいくらかは早くなるだろうか、
 
 (同上)
 
「社会とつながっていれば」。そうだ。そこから何か変わるはずなのだ。
失敗もするし、痛手も負うだろう。しかし学習して、
「次から次へとやりたいこと」の中で、
もう少し今度は賢く振る舞えるはずだ。
 
 
 社会という人間の群れの中で自分の定位置を得ることでしか、
 人間は喜びを得られない。
 
 (第2章 自由論―不自由は愉しいより)
 
 
 
正論だ。
もっと、僕は「定位置」を得たい。
「やりたいこと、やらなければいけないこと」を得たい。
「群れの中で自分の定位置」を探す精神的重圧は、きっとあるだろう。
それに耐えうる力が欲しい。
好著。




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  • ロドリゲスインテリーン
  • 2009/11/29 11:59 PM